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2011年5月30日月曜日

第29回山川菊栄賞

● 第29回山川菊栄賞贈呈式報告
山川菊栄を記念して創設された婦人問題研究奨励金の第二九回贈呈式が、二月二七日(土)午後、東京・一ッ橋の日本教育会館で行われました。
 第二八回は対象作なしで心配されましたが、第二九回(二〇〇九年度)の対象作には、西倉実季さんの『顔にあざのある女性たち―「問題経験の語り」の社会学』と堀江節子さんの『人間であって人間でなかった―ハンセン病と玉城しげ』の二点が選ばれました。
 今回の対象作はいずれもライフストーリー研究の成果を本にまとめられたものでしたが、第一オーサー(固有の経験を語ってくれた人)と第二オーサーである筆者との相互依存が見事に花開いたと言えるものでした。選考委員の一人、有賀夏紀さんが、「歴史をやる人間は、第一オーサーを記録することで終わってしまいがちだが、西倉さんは個人の経験を社会的問題にしている」と高く評価されましたが、それは堀江さんの書き方にも当てはまることでした。
当日は受賞者による記念スピーチも行われました。
西倉実季さんは、研究過程を紹介するなかで、「顔にあざがあることは美醜の問題と想定したことで、語り手との間で齟齬が生じ、行き詰ってしまった。二年おいて、彼女たちが<普通でない顔>に問題経験を抱いているのだと想定を変えたら見えてきた。調査する私も研究対象であることがわかった」と語られました。
堀江節子さんもまた、「最初一人語りで簡単にまとめてしまったが、寝かせているうちに、しげさんの個人史でいいのかと思うようになった。しげさんの、強制堕胎で殺されてしまった娘への思い、平和で差別のない社会にしたいとの思いを書きこまねばならないと思った」と語られました。
堀江さんのスピーチは、隣に玉城しげさんが座って行なわれ、後半はしげさんへの質問の形をとりましたが、まさにライフストーリーが語り手と聞き手の相互依存の賜物であることを彷彿とさせるものでした。
玉城しげさんの話から、本に書かれていないことを二、三紹介します。
◇敬愛園に来て、だまされた思いに悲しくて、園にあった小さな図書室に通い、本を手にした。その中に山川菊栄さんの本もあった。内容は覚えていないが、あの大変な時代に、女の方が男を尻目に女性活動をされたということで、山川菊栄さんの名前だけは覚えている。文学の先生だけれど、普通の方とは違うと思った。
◇裁判が終わるころから、九州全県の学校や公的な場、お寺に誘われるようになった。ほんとうに思いがけないくらいのたくさんの人との出会いによって、世の中のたくさんのことを知った。韓国朝鮮問題とか被差別部落のことを知った。ほんとうに日本もひどいことをしましたね。日本のこの悲しい歴史を子どもたちに教育で教えていかなければとの思いです。
◇私はこの(動かなくなった)手を子どもたちに見せながら、「治療せずに働かせられたからこうなった。厚生省の金鵄勲章だ」と言う。子どもたちは「金鵄勲章ってなんですか」と聞く。「痛くないですか」とも聞いてくれる。子どもはほんとうに純真でかわいい。そんな子どもたちが、あとで手紙やクリスマスカードをくれる。手作りのいろいろな飾りも送ってくれる。嬉しい。
 なお、記念会からは「今年の一一月三日は菊栄生誕一二〇年、没後三〇年にあたるので、シンポジウムをやります。それにつながる連続学習会も企画しているので、多くの方に参加してほしい」との案内もありました。


●山川菊栄賞推薦のことば 井上輝子
西倉さんの本は、顔にあざのある女性たちへの、6年以上にわたるインタビューの成果をまとめた作品である、西倉さんは、女性たちが経験してきた苦しみと、それへの対処の経験をていねいに記録し、整理・分析している。
本書の意義は、なによりもまず、顔にあざのある女性たちの内面的経験とその変化を鮮やかに描き出して、彼女たちが直面してきた(している)苦しみや悩みを、読者に伝わる形で提示したことにある。
たとえば、幼少期から受けてきたいじめの経験や、人と出会ったりする会話をするときに、相手から執拗な視線や無遠慮な言葉を投げかけられる経験。顔にあざがあるという事実だけでなく、あざを隠している自分に後ろめたさを感じてしまいがちな心理。恋愛や結婚の困難、就職の難しさ。さらに、あざについて言及することがタブーになるなど、家族の中でさえ起きる様々な対立や葛藤等々。顔にあざがある女性たちが直面してきた、このような困難な経験の歴史を、西倉さんが当事者女性たちへのインタビューをつうじて克明に描写し分析されたことに、私は敬意を表したい。
これを可能にした理由の一つは、経験の聞き手と語り手の相互作用をつうじて、物語が構成されていくという、ライフストーリーという研究方法にあるだろうが、それだけではない。当事者にできるかぎり寄り添おうとする西倉さんの姿勢と熱意が、当事者の女性たちとの信頼関係を生みだした結果であると想像される。本書の随所に、インタビュー調査の過程を反省的に振り返る個所が記されているが、ここには西倉さんが、当事者女性たちの声を最大限聞き取ろうとした努力の跡が窺える。
私が本書を推薦する理由は、これだけではない。西倉さんは、あざのある女性たちの問題経験を軽減するための方法についても言及している。異形を障害の一種と捉えるべきなのか否かについての議論を検討した上で、私たちが顔にあざのある人や傷のある人を見かけたときに、過度の関心でもなく過度の無関心でもない「好意的無関心」で接することを、提言する。異形の人たちが抱える困難が、実は異形の人たちに対する、私たち自身の接し方と連動していることを示唆し、その改善を提起した点も、本書の重要な意義といえる。
最後に指摘したいのは、本書が現在進行中の問題経験を記録した、現在進行中の研究であるということだ。本書に登場する女性たちは、現在進行形で生きている人々であるから、当然ながら数年間のインタビューの間に、それぞれの生活環境の変化に応じて、あざについての考え方や対処法も変化しているし、今後も変化し続けるにちがいない。したがって、インタビューを通じて考えた西倉さんの意見や結論も、2009年という時点での仮の見解であるといえるだろう。西倉さん自身が今後さらに研究を重ねることで、さらなる発見を積み重ねていかれることが期待される。また、美醜尺度の危うさ、ジェンダーと外見の関係、「普通」とはなにか、機能的障害と異形との関係等々、本書から読み取れるいくつかの問題提起については、現在進行中の考えるべき課題として、本書の刊行を機に、オープンな議論が展開されることを期待したい。


●山川菊栄賞推薦のことば 加納実紀代
かつて<聞き書き>は、女性史の柱だった。無名の女性たちの生の軌跡、文献資料だけでは明らかにできないからである。それによって無告のまま忘却の闇に葬られようとしていた女性たちがくっきりと歴史に刻まれることになった。しかしいまや<聞き書き>は<オーラル・ヒストリー>となり、社会的に活躍した政治家や官僚男性をも対象とするようになっている。
 そうしたなかで、本書はまさに女性史の原点としての<聞き書き>といえる。著者堀江節子さんは、それまでとくにハンセン病に関心を持っていたわけではない。たまたま話を聞いた玉城しげさんへの人間的共感、堀江さん自身の言葉をつかえば「すぎてしまえばそれまでのものを、『出会い』と感じ、気持ちを通わせたいと願う心」によって、ハンセン病問題に目を開いていったのだ。そこにあるひととひととの魂の共振も女性史の原点である。
 それはさらに堀江さんを国家・天皇制・戦争、そして人間とは何かという根本的な問題に導いてゆく。この本は、国のハンセン病政策によって「人間であって、人間でなかった」人生を強いられたしげさんの人間回復の軌跡とともに、著者自身の<問題発見>の過程をも跡付けるものとなっている。そこに本書の大きな意義がある、最後にある「人間はいくつになっても成長できるんだ」は、読者に対する力強い希望のメッセージである。
 しかしハンディな体裁と読みやすい文体にも関わらず、本書の内容はずしりと重い。とりわけ「人間であって、人間でなかった」というしげさんの言葉は、人間とは何か、<人間として生きる>とはどういうことなのかを読者に問いかける。「飼い殺し」としげさんがいうように、ただ死なないように生かされているだけでは<人間>とはいえないのだ。
 さらにこの本は、自分自身のなかにある差別意識への直視をも迫る。しげさんたちに非人間的生活を強いたらい予防法は廃止され、それに対する国家賠償請求訴訟にも勝利した。しかしそれで、この問題はほんとうに解決したといえるのだろうか。たとえば昨年、世界を震撼させた新型インフルエンザ対策において、日本で実施された「水際作戦」なるものは、かつての無癩県運動とどうちがうのだろうか。自己の領域の<清浄>をたもつために、<不浄>とされたものを排除隔離する、ここにはハンセン病者を強制収容したかつてと同様の発想があるのではないか? それに気付かせてくれた点でも、わたしにとっては本書の意義は限りなく大きい。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~rounou/yamakawakikue.htm

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