2015年12月23日水曜日

書評『マルクスと日本人』(田部徹)

*田部徹氏(社会主義協会北海道支局)より『マルクスと日本人』書評が社会主義協会理論部会メーリングリストに投稿されました。田部氏の同意を得て、「管理人より」に転載します。



田部さんの書評原稿は、『社会主義』一二月号掲載予定原稿でした。管理人の勘違いでこのブログに転載してしまいました。『社会主義』編集部の意向もあり、『社会主義』一二月号発行まで削除します。一二月号が発行された後、また掲載致します。管理人の不手際をお詫び致します。
(2015.10.29記す)


十二月号もすでに発行されましたので、田部さんの書評を再掲載します。


  七月下旬に明石書店から発売された本書は、我社会主義協会の山崎耕一郎氏と元外交官で作家である佐藤優氏との、労農派マルクス主義を中心に日本のマルクス主義についての対談をまとめたものである。
  本書は、第一章 日本の社会運動と向坂逸郎、第二章 日本の戦後社会主義運動の展開、第三章 ピケティー「二一世紀の資本」と「資本論」、第四章  「資本論」と社会主義・資本主義の行方、第五章 労働価値説の立て直しと労農派マルクス主義の再発見、終章 日本社会は変えられるか、変革の主体はどこにあるか、で構成されている。
  前書きで佐藤氏(一九六〇年生まれ) は、自分のものの見方、考え方の基本はプロテスタントのキリスト教であるが、同時に高校生から大学生時代にかけて社青同(山崎委員長の時代)に所属し、マルクスの思想から強い影響を受けていると語る。
 一方山崎氏は佐藤氏より二〇歳年長、一九六六年社青同再建東京地本書記長、七一年同本部書記長、七四~八〇年委員長に就き、九八年~協会事務局長、〇二年から十年間代表代行を務めた。私より四つ運動の先輩で、横路孝弘・江田五月等と同年代である。
 本対談は佐藤氏が学生時代所属していた時代の社青同と労働大学の特色、他の民青や新左翼との違いを語ることから始まる。
  第一、二章では、日本における非共産党マルクス主義、労農派マルクス主義を、向坂逸郎の人物像と共に紹介し、社会主義協会の歴史的役割について言及する。その歴史的意義については、講座派・日本共産党と異なる日本資本主義分析と平和革命論にあり、左派社会党綱領に結実したことを評価する。
  佐藤氏は非共産党マルクス主義としての労農派、社会主義協会について、国際的な社会主義運動、世界的文脈の中でも特色ある存在であると高く評価する。
マルクス主義とマルクス・レーニン主義について
  他方、第一章で山川均、宇野弘蔵と向坂逸郎との位相の差について論じているところは興味深いものがある。
  特に私が興味をひかれたのは、山川・大内、向坂のソ連社会主義の評価について、少し距離があったことに触れているところである。
 それは、ユーゴとハンガリー動乱の評価について、山川は「社会主義の道は一つではない」とする基本的立場から当時のソ連を批判したのに対し、大内兵衛はソ連擁護を徹底、向坂は問題があつたとしても、実現したソ連社会主義擁護の立場をとった。
 そしてソ連社会主義が発展し、ML研と協会との交流が深まるなか、協会は六七年マルクス・レーニン主義者の集団であると自己規定する。(私は協会が分裂したその年に向坂協会に加入した。翌年のチェコ事件に対して協会がそれを反革命と規定したが、大変評判が悪かったことを記憶している)
 後のポーランドに始まる民主化運動の流れや、東欧社会主義崩壊の要因に転化していった二〇世紀社会主義の「一党独裁・官僚社会主義」が内包した問題は、その頃から検証すべき課題を持っていた。
  私は、当時の社会主義と帝国主義とが対立する現実を踏まえながらも、協会が「マルクス・レーニン主義者の集団」と自己規定したことが、ソ連東欧社会主義の抱える理論的諸問題を解き明かしていく作業を遅らせ、いたずらに古典への「訓詁学的」解釈に依存する傾向を許してしまったマイナス面を付け加えたい。
  この歴史的教訓は、ソ連東欧崩壊後二五年が過ぎた現代においても、現実の中国社会主義をどのように評価分析し、日本の社会主義像を作り上げていく糧にするか、私たちに問われている課題であると考える。
 
社会主義と国家について
 このことについて本書では第四章で掘り下げた対談を行う。佐藤氏は協会、労農派社会主義、社会民主主義含め、国家による社会的不平等を調整しようとするラッサール主義で、そこに国家社会主義の問題があると指摘する。そして、マルクスが考えていたのはそれと違う理想である、と述べる。
 このことについて山崎氏は、革命後の社会、国家について、「これまでみんなが共同してつくる組織という以上には具体的に考えていなかった」「権力を握ったらただちに全部国有化して国家の手で配分すれば平等になる。それを社会主義と言っていた」「それが、ソ連を見て計画経済というのは、全部国有化されてもそれを使いこなす人材もいない。ただ計算上賃金を平等にすればいいというものではないんだというのが、だんだん解ってきた」と述べ、「検証・ソビエト政権」の総合的な検証作業を提起する。
 ここでの二人の討論が取り上げているのは、社会主義を建設する人間主体の問題である。生産手段の国有化が真に労働者階級の所有とならず、一党独裁のもとで国家官僚指導層(いうところのノーメンクラツーラ)により変質していった歴史的事実とその限界性が、いかにして克服されうるのかという本質的な問題提起をしている。
 それは、これまで協会が行ってきた各論からのソ連・東欧崩壊の研究を、より総合的に深め、次の社会主義社会建設の糧にしようとするものである。遅すぎるとはいえ、私たちが経験し、見てきたこれまでの社会主義を総括し、これからの社会主義を展望する上で避けて通れない課題である。


教条より事実の発展を正確に捉えて
 さらに山崎氏は、六十年代後半の「リーベルマン論文」「利潤概念の導入」に対し、多くの人が「ソ連の社会主義はマルクス・エンゲルス理論から離れた」といった評価に対して、向坂逸郎が書いた次の文章を紹介する。
ー「マルクス、エンゲルスは社会主義社会には生きなかった。だからその社会の国家形態が、どのように変化し、死滅するかを、その目で確かめることは出来なかった。ロシアの現実的発展が、マルクス、エンゲルスが充分推測しえなかった国家形態の推移を示しても、目に角を立てるに当たらない。教条よりも、事実の発展を正確にとらえることが大事である」ー
  この一節は私たちがこれからの社会主義を考えていく上で大変重要な方法論を提示している。ソ連・東欧社会主義の発展をおしとどめ、崩壊をもたらしたその政治・経済・社会要因を事実に立って分析し、次の社会主義のありようを提示していくことを要求しているのである。
  二人は本書で、労農派マルクス主義を中心に、社会主義の諸問題について多岐にわたり語り合っている。ここでは社会主義論についての一つの論点に触れたにすぎないが、現実のソ連と関わりその内実を見てきた佐藤氏と、社会主義運動を実践してきた山崎氏との丁寧な対談は、これからの社会主義を展望する上で、読むものに心地よい共感の響きを与える。




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