5月5日に社青同初代委員長の西風勲さんと面談しました。
現在は宝塚市内の老人ホームにお住まいで、1926年生96歳ですが、ご健在です。
西風さんに会わないかと紹介してくれた人がおり、1月31日に大島淡紅子宝塚市議(社民党)を通して最初にお住まいの老人ホームでお会いしたのですが、その時は初対面の顔合わせ的なものに終わってしまいました。またお会いしたいということになったのですが、コロナ禍の関係で5月5日になりました。
1回目の面談で著書『ふたつの航跡 西風弥生と西風勲が共に歩んだ時代』(社会民主連合出版部、1998年5月)を頂き、今回はそれを読んで面談に臨みました。この本は、西風さん夫人の弥生さん(旧姓荒川)が1997年に急逝されたのを機に刊行されたものです。弥生さんは学生時代の1960年から社青同中央本部に入り機関紙『社青同』(現、『青年の声』)編集にあたり、そこで西風さんと知り合って結婚したとのことです。
また。初回で参考資料に『青年の声』縮刷版No1を持って行ったら、縮刷版の存在を知らず、とても懐かしそうに見ておられたので、社青同委員長の近藤和樹さんにそのことを伝え在庫がまだあるか問い合わせたら、在庫を確認して西風さんに寄贈したいと私宛に送ってきたので、それを持参し、手渡しました。
面談の詳しい内容は別の場で書く予定ですが、人名などすらすらと出てきて、96歳とは思えないしっかりした思考力でした。
周知のように、1977年江田三郎の社会党離脱と共に西風さんも社会党を離脱し、社市連、社民連に参加、非議員ながらその中枢にいたのですが、1994年社民連解散後は大阪で社民連組織を維持すると共に、田英夫と行動を共にし、民主党などには参加しなかったとのことです。
社青同社会党当時の「協会派」との対立も話題になり、当時は対立し対立が正しいと考えていたところもあったが、今思うとそれほど違いはなかったのではないか、とも言われていました。上野建一さんらとは今でも交流があり、立山学さんの偲ぶ会には上京して参加したとのことです。最後の写真は、国会議員時代のパネルを持っていただいたものです。