2025年2月13日木曜日

向坂逸郎と岩波文庫『資本論』翻訳問題

 向坂逸郎と岩波文庫『資本論』翻訳問題

瀬戸宏

『労働者運動資料室会報』62号(2025.2.1)より転載。

岩波文庫版『資本論』翻訳は向坂逸郎の代表的な業績の一つだが、向坂逸郎は実は『資本論』をほとんど訳しておらず、しかも他人の訳文を一方的に下訳扱いし、後には印税も独り占めしてしまったという噂は、かなり前から流布していた。噂の主な出所は岡崎次郎『マルクスに凭れて六十年』(青土社、1983年、以下『六十年』と略記)である。この問題は労働者運動資料室会員などには、向坂ゆき/聞き手・小島恒久「思い出あれこれ」14(『社会主義』200012月号)での向坂ゆき氏(向坂逸郎夫人)の証言とそれを引用・解説した石河康国『向坂逸郎評伝』(上下、社会評論社、2018)出版で解決済みである。しかし2023年に『六十年』が航思社から復刊され、読み物としてはかなり面白く重版もされ、ある程度広く読まれたようで、インターネット・SNSでは岡崎次郎の主張のみに依拠して向坂逸郎と『資本論』翻訳問題について正しくない情報を流す書き込みが目につく。私は向坂逸郎を神棚に祭り上げる気はまったくないが、事実と異なる発言などに対しては、やはり正確な情報を発信する必要を感じる。昨年の東京都知事選・兵庫県知事選をみてもSNSの影響力は飛躍的に増大しており、向坂逸郎についての誤った情報が固定化する恐れがある。『労働者運動資料室会報』は全文を資料室HPすなわちインターネット上で公開しているので、この機会に向坂逸郎と岩波文庫『資本論』翻訳問題についての小文を『会報』に寄稿したい。

 岡崎次郎(1904年~1984年?)は戦前からの労農派系マルクス経済学者で、人民戦線事件で逮捕・一年間投獄の経歴もある。向坂逸郎とは戦前から交友があり、戦後すぐに向坂逸郎から『資本論』翻訳の協力を依頼される。岡崎の主張を知るために、『六十年』の原文を引用しよう。

 「『資本論』の共訳という向坂の提案は、さほど唐突にも思われず、むしろ予期していたものがきたような感じで、私はこれに応じたのである。向坂の出した条件は次のようなものだった。「すでに第一分冊が向坂の手でできているので名義はずっと向坂訳とする。しかし、第二分冊以下は向坂と岡崎が代わる代わる適当な分量をやることにし、どちらがどこをどれだけやっても印税は折半する。差し当たり第二分冊として第三篇以下を適当な区切りまで岡崎がやる」。私は納得した。(中略)その時はこの簡単な口約束だけで至極満足して、私は張り切ってやる気になった。」(航思社版p186)

 そして1947年暮れには担当分(第一巻第三篇)の訳の完成原稿を向坂に渡し、48年夏ごろにゲラが岡崎に渡され、同年11月末に第二分冊が刊行された。だが第二分冊訳者あとがきを読んで岡崎は驚くことになる。やはり『六十年』の原文を引こう。

 「その(第二分冊-引用者)訳者あとがきを読んで私は驚いた。そこには大要次のような一節が書かれていた。『この第二分冊の第三篇からは岡崎次郎氏に下訳をしてもらうことにした。同君の訳はそのままで公刊できるくらいに良いものだったが、私はそれを自分の思うままに直した』。いま現物を持っていないので、文章は多少違っているかもしれないが、文意はまさにこのとおりだった。いったい、下訳とはなんだ!(中略)私は知らぬまに下働きの手伝いにされていたのだ。」(『六十年』p190191、下線部原文は傍点)

 岡崎次郎の不満と怒り、後悔の感情吐露文章はまだまだ続くのだが、紙幅の関係もあり引用はここまでとする。関心のある人は『六十年』に直接当たっていただきたい。

 『六十年』にはまた、岩波から約束通り半分の印税が支払われたこと、第三分冊以降も訳してほしいと向坂に言われ、岩波から印税を月ぎめで前借していたので生活もあり引き受け、第十二分冊(旧版文庫本)まで結局一人で訳したこと、仕事はほとんど自分がしているから印税半々の割合を改めてほしいと向坂に要求して拒否されたことが書かれている。

 航思社版『六十年』には市田良彦氏(1957年生、刊行当時神戸大学教授、フランス思想専攻)の解説が付されており、市田氏の解説はその焦点を向坂逸郎との『資本論』翻訳問題に当てている。市田氏の表現を使えば、向坂の「嘘と傲慢とパワハラ」(『六十年』p384)である。市田氏の理解では、他人の訳を下訳扱いし自分の単独訳として刊行した向坂の行為は、21世紀の現在なら「研究成果の盗用」(390)であり研究不正として大学の研究倫理委員会にかけられ向坂は懲戒処分され、岩波文庫版『資本論』は全巻絶版となる。――私は科研費を得ている関係で大学定年退職後も研究倫理講習を毎年受講させられており、事実関係が市田氏の理解通りなら、その通りだろうなと思う。

 しかし事実関係は違うのである。市田氏もそのことにぼんやりと気が付いている。そのカギは印税という言葉にある。向坂が岡崎の訳文を真に下訳とみなしそのように扱ったのなら、岩波が岡崎に印税を支払う筈がない。下訳は翻訳者とその協力者の関係で、出版社は無関係だからである。市田氏も言うように印税は著作権使用料であり、下訳者にはその権利はない。明らかに岩波書店は岡崎を実質的に共訳者とみなしていたのである。小文の冒頭で、向坂ゆき夫人の証言で問題は解決済みと書いた。夫人の証言を引用しよう。

 

ゆき これは私だけしか知らないかもしれないのだけれど、あの当時向坂は、岩波に「岡崎次郎君の業績がとてもある翻訳だから、二人の共訳にしてくれ」と言ったそうです。そしたら岩波が「それは困る。先生一人の名前にしてくれ」と言ったのですって。

小島 岡崎先生はご存じないかも分からないですね、そこらの経過は。

ゆき それはご存じないでしょう。別に言わなくてもいいことだから。

ーー それが岡崎次郎さんのほうの誤解にもなって『マルクスに凭れて六十年』の記述になっているのですね。

小島 向坂先生はそういうことをいちいち弁解したりおっしゃったりする方ではないから。(向坂ゆき/聞き手・小島恒久「思い出あれこれ」14、『社会主義』200012月号p106107)

 

 ゆき夫人の証言によれば、岡崎を共訳者と明記することに反対したのは、岩波書店だったのである。「思い出あれこれ」は向坂ゆき夫人に小島恒久氏(当時、九州大学名誉教授、社会主義協会代表)が聞き手となって向坂逸郎との関わりを回想した記録で、『社会主義』19999月号から20019月号まで途中休載を挟んで20回連載された。書籍化されていないが、石河康国氏の浩瀚な『向坂逸郎評伝』の上p319にゆき夫人の証言が引用されている。「思い出あれこれ」掲載時期の『社会主義』は、国会図書館デジタルコレクションに入り、登録利用者になれば(無料)、個人送信サービスで簡単に読める。

 向坂逸郎が岡崎次郎を本当は共訳者とみなしていた証拠もある。岩波文庫(旧版)『資本論』は1956年に最終分冊の第12分冊が出版されたが、その「解題」五あとがきに、向坂は「殊に共訳者岡崎次郎氏がなかったら、この仕事は、こんなに早く、こんなによくは出来上がらなかったであろう。」(39)と記している。この部分も石河康国『向坂逸郎評伝』下p91に引用されており、私も国会図書館所蔵の第12分冊で確認した。(現在の9分冊版『資本論』では削除されている)また私は確認できていないが、石河氏によれば1959年から60年にかけて『九大新聞』に連載した回想録でも岡崎次郎を「このうえもなくいい共訳者」「立派な共訳者」と呼んでいるとのことである(『向坂逸郎評伝』下p94)

 “下訳”について、市田氏は『六十年』解説で、向坂の単独訳の名で出すのであれば、「「共訳」とは表紙にも奥付にも書けないから、岩波書店のほうが向坂に「下訳」と書くよう促した可能性もある」(『六十年』p194)と記している(『六十年』p394)。案外事実かもしれない。石河氏が推測しているが、向坂逸郎単独訳とした方が、販売上も有利だったろう。

 「思い出あれこれ」などで触れられていないが、大内兵衛・向坂逸郎訳の岩波文庫『共産党宣言』にも似た事情がある。向坂逸郎執筆の『共産党宣言』解説には「この訳書は、はじめ私が山崎八郎とともに草稿をつくり、それを大内兵衛氏が訂正され、それをさらに私が見た」(124)とある。まず訳文を作ったのは山崎八郎(向坂逸郎実弟のドイツ文学者、元早大教授)で、印税は大内・向坂・山崎の三人で三等分して支払われたという。表紙・奥付には出てこないが、岩波書店は山崎八郎を実質的に共訳者とみなしていたのである。市田氏も指摘するように、著作権は相続可能な権利であり、山崎八郎が1979年に逝去した後は子息の山崎耕一郎氏に印税が支払われた。生前の山崎耕一郎氏から私が直接聞いたのだが、『共産党宣言』は毎年増刷されたので2000初年代で年間10万円程度だったという。

 また岡崎次郎の訳文を使ったといっても、向坂逸郎が岡崎の訳文を碌に検討せずに訳者署名だけ自分のものにして出版社に渡したことも考えにくい。1967年百周年記念版『資本論』「訳者まえがき」(現文庫版では削除)には「私は、文字や仮名づかいの統一はまことに不得手で、その上、原稿がきたなく、これらの統一とこの膨大な本の校正がどんなにたいくつで苦労なものであるかは、想像に余りある」(第一巻ⅵ)とあり、岩波書店に直接渡す原稿は向坂逸郎が手書きしたことを示している。いちいち引用しないが「思い出あれこれ」その他には、向坂逸郎が『資本論』翻訳でさまざまに苦労したさまが語られている。市田氏が存在を疑っている(『六十年』p392)1分冊の検討会が確かに開かれたことは「思い出あれこれ」9(『社会主義』20006月号)に明記されている。(鈴木鴻一郎も書いているとのことである。)岡崎が言うように、刊行された『資本論』訳文が岡崎訳稿とほとんど変わっていないとしても、それは向坂が言うように岡崎の訳文が「そのままで公刊できる程度にいいもの」(国会図書館所蔵1955年第10刷第2分冊p307)だったからであろう。

 岩波文庫『資本論』翻訳を巡るもう一つの問題は、岡崎の言によれば1967年向坂が岡崎に印税打ち切りを求め岡崎が承諾した件である。この件については、石河康国『向坂逸郎評伝』を読む限り、事実関係については向坂夫妻と岡崎の千疋屋での面談が『六十年』にある673月ではなく19665月初めらしいこと(判断の理由は示されていない)を除いて、『六十年』の記述に事実と離れた部分はないようである。向坂が岡崎に印税放棄を求めた理由は、石河氏の解釈が妥当であろう。岡崎は『資本論』翻訳の収入を大月版も含めて、もっぱら個人の生活・趣味に使っていた。『六十年』の岡崎自らが記している部分を引こう。

「私はこれで客間の建て増しをしたり、庭の木や石を買ってちゃちな枯山水を造ったりした。(中略)これでそれから十年足らずの間快適な田園生活を楽しむことができたし、そのころ急速に進歩しつつあった音響装置を備え付けてレコードをやたらに買い込んで久しく忘れていた文化的な気分に浸ることもできるようになった。」(『六十年』p287 傍線部は原文傍点)

 岡崎の『資本論』などの収入の使い道については、市田氏も『六十年』解説で不思議がっている。一方、向坂逸郎は『資本論』などの収入は社会主義運動-社会主義協会への資金援助の重要な来源であった。向坂の立場では、岩波版『資本論』の売れ行きが落ちればそれだけ運動資金が減ることを意味する。それなら岡崎は大月版『資本論』からの収入や法政大教授の給与もあるのだから、岩波版からの収入を返上してもらっても問題ないと向坂は考えたのだろう、ということである。なお、1967年『資本論』刊行百年記念版については、向坂は刊行に当たって「拙訳岩波文庫版に、いま一度、新しい底本にしたがって、改定を加えた」(第一巻ⅳ)すなわち自分で改訳したから共訳問題は消滅し、岡崎次郎がだまされたと怒っている千疋屋の会食は、『向坂逸郎評伝』下「向坂逸郎年譜」19665月の項に「『資本論』翻訳料で岡崎次郎と和解」とあるように、逆に岡崎と円満に解決したと考えていたとのことである。そのためか刊行記念本『資本論』訳者まえがきでは、「岡崎君の下訳は立派であった」(第一巻ⅴ)と岡崎を褒めながらも“下訳”という言葉を復活させている。一方の岡崎は、「この怒りはどこにもぶつけようがなかった。向坂から贈られた献本は献辞のついたまま即日古本屋を呼んで売り払ってしまった」(『六十年』p296)とのことである。

 以上から考えて、私は、向坂逸郎に岩波文庫版『資本論』翻訳に関して研究倫理違反で告発される問題はなかったと判断してよい、と考える。今日からみてやや疑問が残るのは旧文庫版で共訳者と認めながら表紙などで岡崎の名を出さなかったことだが、出版社の要請であり、それが通用した時代だったと言うしかない。残るは、岡崎次郎がなぜあれほど怒りを示したか、である。これは、誤解による感情のもつれとしかいいようがない。もつれが生じたのは岡崎の側にも責任の一端があることは、岡崎自身も『六十年』の中で認めている。一時期親しかった者が関係がこじれるとしばしば相手を罵倒して去っていく場合があるのは、私たちの日常生活でも経験することである。向坂グループの中でも、直系の弟子とされたのに向坂を罵倒して去っていった人物もいる。

 最後に、市田氏の『六十年』解説で気になる部分を指摘しておきたい。今後は『六十年』は主に航思社版で読まれ、市田氏の解説がそれに付随していくからである。それは向坂逸郎が「御殿と言われるような自宅を建てた」(『六十年』p387388)という記述に集中的に現れている向坂観である。中野区鷺宮の自宅は向坂が建てたのではなく、1952年に中古家屋を買ったのである。自宅の件は、「思い出あれこれ」13(『社会主義』200010月号)にゆき夫人が詳述している。元は画家の家だが戦後は約30人が住む全食糧労働組合の寮になっており、全食糧労組の紹介で向坂が購入した。購入時は野中の一軒家だった。面積は500坪で広いがかなり荒れ果てており、購入価格は100万円という。1952年の公務員大卒初任給が7650円で2024年一般職公務員大卒初任給が22万円であるから、1952年の100万円は2024年の3000万円足らずであろう。定職のある人なら無理をすれば払えない額ではない。それでもゆき夫人はたいへんな額だったと述懐している。このほか「思い出あれこれ」の随所でゆき夫人は金銭面の苦労を語っている。向坂逸郎は市田氏が想定しているような「蓄財の才」(『六十年』p388)の持ち主ではなかったことは確かではなかろうか。

 明治生まれすなわち人格に封建遺制が残る向坂逸郎に、批判される側面があったことは確かであろう。市田氏はまた岡崎も批判的にみている。しかしその批判は事実に基づくものでなければ説得力を失う。市田氏が『六十年』解説を担当したのは、航思社から著書を刊行した関係で依頼されたからのようだが、市田氏が執筆にあたって「思い出あれこれ」『向坂逸郎評伝』などを参照していれば、解説は別の内容になったであろう。もし市田氏が「思い出あれこれ」などの記述に虚偽があると考えるなら、市田氏にはそれを証明する責任が生じる。入手しやすい『向坂逸郎評伝』すら参照していないのは大学の専任教授という市田氏の立場、研究条件からみて怠惰ではないかと私は感じたが、フランス思想専攻という氏の研究方向を考えればやむをえないのかもしれない。

岩波文庫『資本論』第12分冊あとがき(向坂逸郎)。岡崎次郎を共訳者と明記。

2025年2月12日水曜日

労働者運動資料室HP更新

 本日、久しぶりに労働者運動資料室HPを更新しました。

文献・資料に、日本社会党党歌を掲載しました。
以前から探していましたが、なかなかみつかりませんでした。偶然、『日本社会党30年の歩み』(日本社会党機関誌局、1975年)に掲載されているのをみつけ、本日転載しました。正確な党歌制定日時は調査中です。
 

会報ページに第62を掲載しました。
62号の内容は次の通りです。
◎ 岡部雅子さんを偲んで-2024 年の最後に
山口順子、山田敬子(山川菊栄記念会)…………P1~3
◎ 向坂逸郎と岩波文庫『資本論』翻訳問題
瀬戸 宏(摂南大学名誉教授)…………P4~8

2025年2月1日土曜日

『社会主義』2025年2月号目次

 『社会主義』最新号目次です。一冊620円。紀伊國屋書店新宿本店、大阪・清風堂書店で販売中。社会主義協会でも取り扱っています。

宝田公治■再度 政権交代の展望

特集 少数与党政権下における通常国会

飯山満■与野党伯仲下の政治課題をさぐる

菅原修一■石破政権「総合経済対策」の空文句

田中信孝■少数与党下の政府予算と税・財政の問題

柳湖太郎■国民のための税制改正の焦点と改革課題

山登志浩■能登半島地震から一年を経て


平井久志■「非常戒厳」という自爆

熊谷重勝■産業構造、そして雇用、生活が変わる

高橋要三■連合の2025春季生活闘争方針と課題

安河内賢弘■2025春季生活闘争に向けて

小池泰博■地方中小労組の底上げをどう図るか

佐藤工■学校職場の働き方改革が急務の25春闘

登坂崇規■自治労2025春闘方針の特徴

山田新吾■2025春闘で賃上げがあたりまえの社会を